何か爪痕を残して、何者かになりたいと密かにずっと思ってた。
X(旧Twitter)でバズらなくてもいいから沢山のフォロワーに囲まれたいとか、noteで記事を投稿し続けた結果書籍化するとか、Instagramで皆の憧れるような丁寧な暮らしを投稿して羨望の眼差しを集めるとか。
現にXでは久しく更新していないリア友(今はもう死語になる?)専用のアカウントとは別に趣味用のアカウントがある。
好きなアーティストとか、イラストレーターとか、素敵な暮らしをしている人や美味しそうな料理を作ってる人をフォローして情報収集している。
そんな人たちに憧れて自分も投稿してみるけど、うまくいかない。
やっぱり無理に背伸びしてるって分かっちゃう。
私はそんな人たちみたいに丁寧な暮らしもオシャレな料理もそれを表現する写真技術も加工技術もない。
Instagramも同じ。
noteもまとまりのない文章と内容に嫌気が差して投稿しては削除しての繰り返し。
私もみんなみたいになりたい!って思ってる時点で何か負けてるのかも。
皆は自然体でそれを表現しているのに、私は背伸びして背伸びして、背伸びしまくっているのに届かないんだもの。
技術が無いなら無いなりに勉強して身につければいいって言われるかも。
丁寧な暮らしに憧れるなら、少しずつ近づけるように頑張ればいいって言われるのかも。
周りの皆だって全員が全員ありのままの姿って訳じゃなくて、無理して自分を良くみせてるのかも。
だから、そうなりたいなら頑張りなよ。
…って思う度に段々と色んなことが嫌になってくる。
別に頑張ってそうなりたいんじゃない。
自然体がそうでありたかっただけ。
ありのままが周りが憧れる姿だったのならどんなに嬉しいことだろうか。
私のありのままは丁寧な暮らしじゃないし、平々凡々の家庭料理だし、子育てに追われて技術を勉強する時間がないと言い訳するような人間だ。
頑張ることは嫌いだし、面倒なことはもっと嫌。
だから私はXでもInstagramでもnoteでも爪痕を残せずにただの村人Aのまま。
そのくせ「何者かになりたい」と思っている。
よくよく考えてみれば大多数の人たちは皆私と同じだ。
SNSの光が強すぎて常にそちらで輝いてる人たちに目が眩むけど、私みたいな人がほとんどなんだ。
仕事して、家事をして、食べて寝て必死に毎日を生きてる。
別にSNSに固執しなくてもその人たちは自分なりの幸せを掴んでいるし、自分の役職をもっている訳だ。
それは誰かにとっての家族であったり、友達であったり、仕事仲間や恋人であったり。
もっと細かく見ると母だったり父だったり、夫、妻、子供、兄や姉、弟や妹などなど…。
そう考えれば私も、夫にとっての妻であり、子供にとっての母であり、母と父にとっての子供であり、兄にとっての妹であり、大好きな友達の親友である。
SNSや大きな世界からみたら私は何者でもないし、何者にもなれなかったけど、身近な人の何者かにはなれる。
ずっと何者かになって周りから認められたいと思っていた承認欲求を自分で認めて、私はそれを諦める。
代わりに身近に人の、大切な人の何者を全うできるように生きようかな。
だからもう無理してnoteを更新するのも、Xに執着して時間を搾取されるのもやめる。
読んでいて何言ってるのか分からないなって思ったでしょう?
私もです。
でもありのままの気持ちを書いたし、これでいいのです。